今回のテーマは「相手の立場を理解すること」です。
突然ですが、みなさん、映画『Coda あいのうた』はご存知でしょうか。耳が聞こえない両親を持つ子供(Coda: Children of Deaf Adults)の人生を描く物語です。
ついこの間、この映画を見て「相手の立場を理解するのって、美しいな」と胸が熱くなりました。ふとこれを掘り下げてみたいと思ったので、書いてみようと思います。
映画『Coda あいのうた』で描かれる美しさ
※ 映画について、若干のネタバレになっています…
公式ホームページから物語について引用すると、
「聴こえない家族の「通訳」係だった少女の知られざる歌声。それはやがて家族の夢となる」
とあります。主人公の少女は耳が聴こえて、彼女の両親と兄は耳が聴こえません。少女は家族の通訳係として生活する傍ら、学校生活を通じて音楽の道に行くことを真剣に考え始めます。でも、家族は、歌を楽しめないこともあり、最初はなかなか少女の夢を応援してあげることができません。
ただ、物語が進むにつれて、こうした家族の消極的な態度が変化していき、引用にあるように、少女の夢が「家族の夢」になっていきます。これがもう、本当に胸熱です。両親は、耳が聴こえないことで、娘の立場を最初は理解できない。それでも、徐々に、彼らなりの方法で「歌を感じよう」と努力して、娘に対する理解を示していく。
このプロセスで描かれる登場人物の言葉や表情が、暖かくて感動しました。
そして、相手の立場が想像できず、相手を必要以上に否定してしまった経験が私にあったからこそ、「相手の感覚が理解できなくても、愛情を持って一生懸命理解しようとする姿勢」に、余計にぐっときたのだと思います。
“Agree to Disagree” の異なる解釈
“Agree to Disagree” というフレーズが持つ雰囲気が、カナダとオーストラリアで異なるかもしれない、という話です。「相手の立場の理解」に関連するエピソードなので、紹介してみたいと思います。
私が初めて “Agree to Disagree” というフレーズに出会ったのは、カナダの UBC (University of British Columbia) に1ヶ月オンライン留学したときです。カナダの多文化共生社会についてディスカッションをする授業で、先生から「最近カナダではこういう態度が大切にされ始めているよ」という文脈で教わりました。
直訳すると「不賛成することに賛成する」となり、真意は「相手と考え方が違っていても、違うということを積極的に認めて、それにリスペクトを示そう」というポジティブなものです。
私は、日本で生活していて、ここまで「違う」ということにリスペクトを示す態度に出会ったことはなかったので、少しびっくりすると同時に、「確かに、その態度なんかいいな」と共感したことを覚えています。
この “Agree to Disagree” の態度があれば、相手の立場を理解することができるよ、という感じで締めくくりたいところなのですが、私が面白いと感じたのはここからです。
カナダ UBC のオンライン留学以来、”Agree to Disagree” をポジティブな態度だと解釈していました。ところが、その解釈は普遍的なものではありませんでした。
あるとき、オーストラリア出身の友人とこの態度の話になりました。私は「オーストラリアもいろいろな国籍の人がいるから、このフレーズ知っているかも」と思ってこの話をしたのですが、その友人は「そのフレーズ、少し冷たい印象だね」と言っていました。
なるほど、この友人にとっては “Agree to Disagree” というのは、「我々は1人1人違う存在である」というメッセージが強調されていて、お互いに歩み寄ったり共感したりするニュアンスまでは含んでいないフレーズなのかも…と私は感じ取りました。
「同じ “Agree to Disagree” という3単語なのに、国や人によって解釈が異なる」というのが、このエピソードで一番話したいところです。
相手の立場を理解するというのは、単に「違いを認める姿勢を持つこと」ではない気がします。
「同じものを見聞きしても、人の数だけ解釈の仕方がある」ということを念頭に置いて、人の認知のグレーな部分というか、人によって相対的に異なる部分に敏感になることが、重要なのかもしれません。
さて、今回は「相手の立場を理解する」ことについて書いてみました。
みなさん、普段の生活でどれほど相手の立場を想像しますか。これついては私もまだまだ未熟者、というか一生何かしらを学び続けるんだと思いますが、何かヒントになる言葉があれば、嬉しいです。